昭和51年3月12日 朝の御理解 大坪かよこ
御理解第52節
信心するものは驚いてはならぬ。こっれから後、どのような大きな事ができても、少しも驚くことはならぬぞ。
私があの一番心強いと思いますことは、あの合楽の場合には、こうしてもう総代さん方が毎朝参拝されて、そして教会全体のことを、あのお取次ぎ願って下さること、もうこれがなんと言ったって一番心強いです。
ですから、あのこれほど日々のことを、教会の総代が願っておる。それを私はお取次ぎさせて頂いておる。その中で起きてくることだから、という思いが強いのです。
だからそれは段々こう厳密に行って参りますと、また、それは絶対とか、というものではないですから、それは段々目細うなっていくというかね、言うことになって参りますと、もう、またこの言うならばどのようなことが起きてきても、驚かんで済むだけの心がでけて参ります。
これは結局お取次の働きを信じておるからだと思うんです。
あの、私の三男の幹三郎が御承知のように肉腫で入院を致しました時に、医者はもう99%は駄目だとこう言われる。
もし、あの奇跡が起こらん限りは、だからそのひとつの奇跡に掛けとる以外にない、と、もうお医者さんのみんながそう言われるほどしのことでした。
同時に沢山な人がお祈り添えをして下さって、毎日その為のご祈念があったほどしでした。だからそれもさることながら、一番そんならば、あの身近なというか、どうでも願わなければならないという、これは私は取次者といして、です、父としてではなくて、あの家内が病院から毎日お届けに出て来てくれたことです。
もうこんな心強いことはありませんでした。ね、沢山の人が祈っておって下さる。なるほど有難い。ね、けども一番いわばあの節実に、おかげを頂く、頂かんは別として、引っ掛かりができるのは、家内が毎日日参して来て、病院から日参してきたことです。
これは不思議なもんです。だからもう結果は、右左はもうあなたにお任せしたという安らぎが生まれます。
ね、私は信心するものは、どんなことが起こって来ても驚いてはならんぞと言うことは、日々間違いのないお取次ぎを頂いて、そのお取次の働きを信じるところから、驚かんで済む心が生まれてくると思うです。
ね、だから日々このようにも間違いのない、一分一厘間違いのない働きの中にあるという体験がまず大事です。ね、そういう間違いのない働きの中に起きてくること、それが例えていうならば、取り換え、普通で言うならば、取り返しのつかないといったようなこと。ね、北野の堤清さんが、あちらの部落の方たちを何人も自動車に乗せて、毎日毎朝、ご祈念になっておられました。
その日も私はこうして御理解を皆さんに頂きよったら、その日に座っておったあの堤さんがぺたっと下にうっついてしもうた。
それでもやはり、もう隣におったあのお母さんが、あの、ま、それこそ顔色を変えてどうか致しておりましたけれども、やはりあの御理解を最後までめでたく続けることがでけた。
と言うようなことがです、いわばここで亡くなられたんです。御理解を頂き頂き、御理解を帳面、あの手帳に控えながら亡くならたんです。
で、そういうような場合であっても、合楽に向かうて来て、しかも、お広前のことであるから、私驚きませんでしたね。
あれがたとえば合楽ではない方向へ向かって行って、途中でこんなことがあったげなというならば、驚くというよりも、残念に思うでしょうね。
ね、それはやはり神様へ心を向けて来てからのことですから、これはもう最高のおかげだと私は信ずることができました。
ね、心を神様へ向ける、たとえばここでのお月次祭ならお月次祭の時に、ね、中心になる方が今日のお月次祭のことを、たとえば先生をなさる久富先生なら久富先生が、お取次ぎを願われる。もう私はがたがた言わんでいいです。お取次ぎを頂いてのことですから、どういうたとえば御粗末御無礼がなら神遷室であっておりましても、ね、お取次ぎを頂いてからのことだから、と言う。お取次ぎを頂かずしてならば、ちょいちょい、神饌ありよります神饌室を覗いて見ろうごとあります。
は、そげなろくそなことして、そげなこといかん、と、やはりがたがた言いたい、ようなものが生まれてくるですけれども、お取次ぎを頂いてからのことであるならば、何にも言わんで済む。終わった、で、ひとぺんどり、こうやってみてみるだけで済むのです。それはお取次の働きと言うことを信じておるからです。
ね、お取次ぎの働きというものが一番、言うならば、信じておる所から、ね、お取次ぎ頂いとったけれども自分の思うようにならなかったと、こう言うようなことはもう、いよいよ金光教の信者の、ま、一番最低のところです。
ね、金光教の信心の、ま、言うなら独壇場と言われておる御結界、そしてお取次ぎを頂くということ。お取次ぎを願うということ。ね、そこから言うならば一分一厘間違いのない働きも起きてくると同時にです、ならば、自分の思うようにならなかったということも、やはり一分一厘の間違いのない働きの中に起きておることだと確信するときに、金光教によっての救い、助かりがあります。安心があります。
ね、金光教によって助かるということはそういうことだと思うです。
ね、金光様にお参りをしてお取次ぎを頂いて、ね、言うならばよくならん病気がよくなったとか、開けんはずの道が開けたとか。
昨日ある方から電話がかかって来た。もう長年の間ですけども、毎日毎日大変苦しいことです。ね、だからそれほんとにそれ毎日あのお願いに来て、お願いをする、おかげを、それこそ一分一厘間違いのない働きを受けておりますけれどです、もう毎日毎日がです、おかげの頂ける、いわゆる形の上でですよ、おかげの頂けれるきっかけというものはもう全然ないわけです。
もうどんなに見たっちゃ、もう今日はだめの、今日はだめのというような感じです。
それでもおかげを頂いてるです。ね、最近なんかは運転免許を取られてるというので、
どうぞ、毎日毎日自動車に乗って回らんならんから、それがお願いがあるです。
ね、それでも私はそげなことはいかんとは言わんです。やっぱどうでも必要なんですから。
お願いをさせて頂いています。と言うようにです、もう言うなら離れ業的なおかげを頂かなければ立ち行かない、何年間か続いているです。
そこの息子から昨日電話が掛って来たんです。
こう言うような状態になったらどうしたら良いでしょうかとこう言う。どうしたならよいでしょうかて、あんた方にはどうするという手立ては全然ないじゃないかと私は電話で申しました。
昨日私は、あの4時のご祈念は必ず30分間ご祈念の座に座るんです。けど昨日は15分間でここへ来ました。そしたら座った途端にその人の電話でした。そしてまた次に私じゃなきゃでけんという電話が掛って来ました。ああ言うとこなんかもう一分一厘、いつもながら間違いがないな、そしておかげが頂けるなーと思うです。
私が4時から、ご祈念中に私を呼び出すわけにはいかんもん。けどももう切羽詰って今じゃなきゃ出来ないという人ばっかりです。一人は宮崎だったですか。一人はその今言う、毎日毎日、もうなら、こげな手もあるの、こげな方法もあるのという、全然方法が無いのですから。
ね、もう立ち行くということの方がおかしなくらいなあり方の中に立ち行っておるんです。もう今日は駄目、今日は駄目で、駄目じゃなくておかげを頂いておる、と言うことは、ま、ほんとに神様の働きをもうそれこそ、もう、小刻みにね、こう頂いておるということにもなりますけれども、ね、だから、あのどうしたならよいであろうかという、もうどうするという手は無いのだから、ね、こう言う姿勢でおすがりしておりますという姿勢を見せろと私は申しました。
ね、もう、手はないのだから。言うならもう助かる手立てはもうないのだから、人間的に見たら。それでもやはりおかげを頂かなければならん、ならばおかげを頂かなければならんというその姿勢を見せろと。
こんなに沢山朝のご祈念にお参りをして来ておる。さほど遠くもない所ですから、ね、なら朝のご祈念にでも出てみないか。電話ででもお願いせずに、ここへ出て来てみないか、まそうは言いませんでしたけれども、そういう意味のことを含めて申しました。
ね、どうにも手立てが付けようのない、どうしたなら良いでしょうか、どうするて手立てはないのだもの。
ね、だからそういう手立てがないほどしの中をやはり何とはなしにおかげを日々頂いて生き伸びておるということはです、神様のおかげを頂いておるのだけれども、そんならそのほどしのことを願わして頂いておるのならば、どうしたなら良いじゃろうかと言わずに、そういう姿勢を持ってすがるより以外にはないと、ま、私は申しましたことです。
ね、そういう神様の一分一厘間違いのないお取次の働きを受けてのことでありますから、どういうことが起こって来ても驚かんで済む信心。
その次の53節にございますように、信心すれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多い、とあるのですから。
ね、お取次ぎを頂いて一分一厘間違いのないほんとに神様の働きちゃ恐れいりますというようなおかげも頂かなきゃなりません。けどもお取次ぎを頂いてです、ならそういう自分の思いとは反対のことになりましてもです、ははあ、ここんところが、私どもじゃ分らん、人間じゃ分らんけれども、ね、ここんところが目に見えない、信心しとりゃ目に見えないおかげが多いと仰る目に見えないおかげのところだなーと信じることです。
お取次の働きを信ずるというたら、そこまで信じなければ、金光教による助かりはありません。
ね、私が一番楽な思いをすること、私が楽な思いをするということはおかげを頂くということにつながるです。
ね、どういう難儀なところを通っておられてもです、ね、たとえばあなたなりの一生懸命の信心がでけておられて、そしてお取次ぎを日々頂いておられるならば、こんな楽なことはないです。ところが自分が信心はでけんなり、どうぞどうぞと言うて無理を言うなら、もうほんとにこたえます、体に。こげんとは。
ね、大体ひっかけようがないもの神様に。氏子がこのように熱心に、このように一心におすがりを致しておりますからと言えれるけれども、信心はでけずしといて、どうぞどうぞと言うのは、それでもやはりおかげは渡したい、お取次ぎ、良いお取次ぎがさして頂きたいから、私の体に無理が行くんです。
ね、氏子は信心がまだ分かりません、修行も出けません、その変わり私が一心にすがらしてもらいます、私が修行さして頂きますからというような、お取次ぎは体にこたえます。ね、だからなら皆さんのように、毎朝こうやって朝参りがでけて、そしてどういうそれはです、もうそれこそどういうお願いをなさっても、これは実に楽です。
皆さんが熱心だから。ね、そこから私は間違いのないお取次の働きが起きてくる。
そしていうなら、一分一厘間違いのない働きのいわゆるおかげを受けて。
ね、たとえば、なら、目の前が真っ暗になるようなことがたとえば起きたと致しましてもです、ね、日々これほどの間違いのないお取次ぎを頂いてのことであるから、こりゃ深い神様の神慮があってのことであろう。目に見えないおかげの方が多いと仰るのは分ら無い。人間だから。分らないけれども、ここんところが目に見えないおかげのことであろうという心が起こりますところから、驚かんで済む信心が生まれると思うですね。どうぞ。